嫉妬

自身と比較して、自分が得られなかった、もしくは得られていない境遇にある人々を、うらやむ気持ちが嫉妬の感情だ。同時に自分が得られていなくて悔しいという恨みや憎しみの気持ちでもある。

 

何に対して嫉妬としているのか?その人々が置かれた「環境や時代」に対して嫉妬しているのではないか? 大谷翔平氏はセミプロのスポーツ一家に生まれ体格に恵まれ、末っ子の次男として極めて保守的な東北の文化だが、競争が激しくない田舎に生まれた。思考停止を求められる体育会とは真逆の環境でもあり、自主性が尊重された。

 

少し前の時代であれば自主性はわがままと混同されていて、上の人間に言いなりになるのが素直とされた。ムラの既得権者に都合よく解釈され多くの人に賛同もさらた。今でもよくあり、日大アメフト部はその典型だが、どこでも見られるとスポーツ関係者が指摘していたし、以前体育館で見かけていた現役学生やシニアの人々の文化もそれで辟易した。一番の問題は遊び心や不確実性を排除しているため伸びしろもイノベーションも生まれないのだ。

 

昨日のF1の日本グランプリで活躍していた人々は、現役の23歳角田裕毅、インティ500の2回の優勝者の佐藤琢磨、F1チームトップに成りあがった小松氏、日本ムラからヨーロッパムラへ行ったパイオニア中島悟氏、F1ドライバー予備軍のリザーブドライバーに位置している、平川氏や岩佐氏やマックスやピケの娘やベルガーの娘。ジャック・ドゥーハンなどキリがないが、彼ら彼女らの周囲には、レースと富裕の環境があった。当然生存者バイアスもある。しかしこれらの環境がなければ今の位置はない。つまり必須の条件だ。それらの環境が彼らの子息に、さらに相続されている。これら「環境と時代」は彼らが選んだものではない。あったものだ。

 

これらを書きだしてきて、あらためて気がつくことは、人それぞれの80億人の百者百様の「運命」と、これまで歩んできた道を生かすことが一番で、これらを生かす環境を選んでいくのが、それぞれ個人にとってもマクロでみても最善だということだ。環境によって全く違うものになるのは天文物理でおなじみだ。これが宇宙のルールだ。ルールに従うと同時にルールは生かすべきだ。

 

個人の能力や努力と同時に、時代や環境に大きな影響を受けて個人が存在するところは、重力波のようで、波のように周辺環境と時が重なって、個人が存在しているようにみえる。

 

これらは発見されるためではなく、解決されるためにある。